はじめての解体

いつか捌く日がくるだろうと思っていた。

こういうものは突然やってくるもの。

そして、やってきたら逆らわずやってみるもの。


その日は、子を産んだばかりの妻に代わって、家事に追われており、

家事をダッシュで終わらせてからは、玉ねぎの定植をしていた。


うちの畑は車の出入りのある道路のどんつきから、

さらに奥に入っていった先にあるので、ほぼ車は通らない。

あと20分ほどで12時のチャイムが鳴るなぁと、

ちょうど玉ねぎの定植も一区切りついて

午後から続きを植えようかと思っていたところだった。


ブーン(車の音)

お世話になっている集落の人の車が止まった。

とりあえず挨拶にいく。


「イノシシいる?」


そこには仕留められたばかりの小さいイノシシが一頭。


その時、ものすごいスピードでぼくの頭の中は回転していた。


(うわー今日午後からまだ玉ねぎ植えたいし、12時に帰って昼飯の支度せんと待ってる嫁が不機嫌になるし、でも目の前にはウリ坊おるし、せっかくの命を活かさんのはなんにもまして筋が違うと思うし)


「いります。」


捌いたこともなかったのだが、やはりこの子は放ってはおけんと受け取ることにした。


過去の関係ありそうな記憶を総動員して捌いたのだが、

排泄部分と内臓の処理は試行錯誤という感じで、

これは一度教えてもらうしかないなと感じた。



そんでもって、

初めての解体で、

なんだろう

気持ちがナーバスになった。


これは産後の妻に言うのは、ちょっとやめておこうと、

初めての解体は自分の懐にしまい、その日はなんだか重い気持ちで眠りについた。


次の日、ぼくが捌いたというのがさっそく猟師さんの耳に入り、

また2頭イノシシがやってきた。

これは勉強の機会と思い、捌き方を教えてもらうように頼んだ。

内臓の処理など教えてもらったが、

綺麗に捌けるようになるにはけっこう場数がいるなと思った。

そして、一頭目で感じたあの感情は不思議なことにニ頭目からは感じず、

これが慣れか〜と思った。


が、やはりあの瞳をみると人間と獣何が違うのかと考えてしまう。


肉屋をしている人には豪快な人が多いというのを聞いたことがあるが、何かを外してしまわないとやっていられないのだと思う。


生命。

我が家に新しく誕生した生命もあれば、亡くなっていく生命もある。


最近宇宙の本を読んで知ったのだが、この地球にも終わりがあり、太陽にも終わりがあり、ましてやこの天の河銀河にも終わりがあるという。


もちろん、ぼくにも終わりがある。

というか、死に向かって過ごしている。


このウリ坊に死が訪れたように、誰しも死はやってくる。

地球然り、太陽然り、この銀河然り。


ぼくの生きるの周りにはたくさんの死でいっぱいだ。


もし、死が心地の悪いものだったら、生きていることが居心地悪すぎて生きていられないだろう。

だから、死ってそんな特別なことではなく、

当たり前のことなのだろう。


一人の産まれた生命と一頭の失われた生命。


狩猟をするかはわからないが、今後もおそらく運びこまれてくるであろう動物たちをしっかり活かしてやれる術は身につけようと思う。


そこまで綺麗にやってくれるならまぁいいよって納得してもらえるように。

にわとり舎

土に根を張り、土とともに生きていく。 阿蘇の里山の水源近くの古民家で、動物たちとともに、 薪をくべ、田畑を耕し、 時々麦を編みながら暮らしています。

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